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2017年11月13日 (月)

2017-11-12 仏教と自死に関する国際シンポジウム(関西大会)まつだコメント

2017-11-12 仏教と自死に関する国際シンポジウム(関西大会)まつだコメント
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ヨガのレッスンを終えて 時間がないのでヨガマットを背負い 昼食も摂らずに会場へ滑り込んだ
 
何とか初めから聴講はできた
 
昨日今日は疲労困憊で 横になっていた
 
罰当たりだったのか?
            

 
しかし 感動するには至らなかった
 
休憩ごとに聴講者の数が減っていったのも あるいは時間に拘束されたお方もおられたであろうが 私と同じ思いをされたのかもしれないと感じた
 
私はそれでも 最後まで座にいて質疑まで確かめた
 
私も質問を入れたので あるいはと思う気持ちはないとは言えないのであったが お答えにはなれないであろうとも感じた
 
 
 
質問
 
インドにおけるカースト制度で 貧困にあえぐ人々がいる
 
牛に救急車が用意されるが カースト下位の人間には医療さえも与えられないのはなぜか?
宗教に分派ができるのはなぜか
?
           

 
答えられないことは当然だとも感じる
 
仏教の教えの元であられる「釈迦」の教えをひたすら信じて実践されるなら 分派などされることはないというのが 浅はかな 無学な 正直な私の考え方
 
キリストの教えについても マホメットの教えについても同じ
 
それゆえに 後世の人々が都合よく解釈された宗教には信頼感が乏しく 信じられる人々はお幸せであればそれで大層結構であり 救われておられることもお幸せなことであるので何も異論もない
 
私は 現在の既存の宗教に救われたいとも思わないし 信頼の全てを寄せることもできない 
 
宗教家からは多分「不幸な人」と評されると思うが それでも心底信じることができないのに信じた振りもできないから致し方ない
 
 
 
心から尊敬できる宗教家に出会わなかったからかもしれない
 
宗教にも「金=経済力」がまつわることも仕方がないとは思うが好意的には感じられない
 
今日の「そこまで言って委員会」でも宗教法人税が取り上げられていた
 
信教の自由は当然だが 無宗教で生きる自由もまた当然
 
宗教の拡大のために税制優遇されるなら 無宗教で生きる人にも何らかの税制優遇措置があってよいのではないかと感じる
 
宗教団体の資産となる広大な敷地の確保も関係ないし 相互互助の恩恵もない
 
宗教は常に自らが信じる宗教が最高位でなければ意味がない
 
だから 信じないものを哀れと言う感覚で蔑むことになるように思う
 
無宗教であれば 他の宗教を貶めることも必要ない
 
私は一人教祖で一人信者と言っている
 
人智を超える力を現存の宗教で補おうとされるには無理があると感じるが 全てを科学で説明しきれないところに宗教が生まれたと思う
 
地球がある宇宙のほかにも宇宙があると言われると それを科学で究明できるのに地球の余命35億年?には間に合うのだろうか?
人生が130年となるようなことを聞くと 「幸」がもっと々遠くなるようにも感じる

 
長生きが「幸」と刷り込まれたのは自殺者が増えた要因の一つでもあるように感じてしまう
 
短命でも「幸」な人生もあり 長命でも「不幸せ」な人生もある
 
自殺者が家族共に非難にさらされることは 生きていることの「意義」を深く感じていないからかもしれない
 
人にも動物に対しても単に生きていれば立派とは言えないと思う
 
 
 
律蔵のなかでは、他人を殺すことは罪という文脈はあるが、自分で自分を殺すことについての言及はない。あるいは、身投げは悪だという項目もあるが、これは単に飛び降りるなといっているだけ。飛び降りると下の人が危険だから、飛び降りの禁止なだけ。
 
此の一言はとても共感する
 
凄惨なご遺体に向かわれる方々のことも思い至っていただきたい
 
ご自分が「死」によって苦しみから救われたということになっても 生きている人々を苦しめてはならないであろうが そこまで考えられないから 「自死」となられるのか?
              

 
仏教で人を殺してはいけないという法律があるが、それは重要物語がある。この世は一切皆苦、苦しいんだという教えによって、みずから死んだり、人を殺したり、人に殺してもらったりする事件がおきた。
 
人に殺してもらったりする事件
 
と言う表現は殺された人の人格を傷つけるように感じる
 
時には嘱託殺人もあろうが 普通には 被害者であり 頼んで殺されることは珍しいことだと思うが 宗教家故にこのような表現となるのか? 説明不足なのか?
私には違和感が残る

 
 
 
結論、一番古い仏教経典、最初期の経典に、自殺が罪悪、犯罪、いけないことであるという記述はない。その後の時代の変化のなかで、自殺が悪いという記述はあるものの、最初期の経典にそのような記述はない。

そのことは教えが時代によって変えられて行ったことの証明であり 時代の価値観の変化で宗教の解釈が変わることは普遍的ではないからだとも感じてしまう
 
ど素人の勝手な解釈と嘲笑されるであろうが そのようなことが積み重なって 「営利的な宗教」かできるのかもしれないと思ってしまう
 
 
 
自殺にまつわる世間の画一的なイメージは残念に思っている。自殺で亡くなった人は弱い人、罪だ、おかしい人だという声が残念。それは生きている我々が勝手に決めつけている。世俗で欲望にまみれて生きている我々の方が、仏教的な人としては劣っているのかもしれない。
 
 
 
亡くなった人の顔をこっちが判断、ジャッジしてはいけない。生きている人も様々な気持ちで生活しているように、死んだ人も様々な気持ちで死んでいった。
 
自殺を称賛することもないが 貶めることもない このことばには賛同する
 
 
 
インドは元々カースト制のもと差別されていた。仏教は生まれで人を差別しない。
 
之には大きな違和感を持つ
 
差別されている カースト制下位の人々が 聖なる「牛」以下であって 救えないで 貧困 レイプ等に苛まれていても放置されているとしか見えない 
 
仏陀の国としての誇りは何処かと問いたい
 
宗教」の救いとは何か?
               

 
基調講演にも パネリスト各位にも これぞ宗教家仏教は素晴らしいという感じは持てなかった
 
多分に不遜であるからなのだと自覚はしている

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