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2016年6月 4日 (土)

2016-6-3S,Maコメント返信

2016-6-3S,Maコメント返信
 
A.H様 大変お待たせいたしました
 
家族の事情はまだまだ困難が続きますが PCがメンテからかえって参りましたので 取り急ぎコメント返信に取り掛かりました

 

長い文章となりましたので フェイスブックでは修飾編集ができないので

 

http://S-ma.cocolog-nifty.com/ 
 
に書かせていただきます
 
よろしくお願いいたします 松田早苗 
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A.H
>人間が介入 (餌付けや不妊手術) をしないところで 自然発生し 自然淘汰される猫が本来の野良ネコです

そもそも動物はすべて自然淘汰されなければならないのです。
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まつだ意見
【そもそも動物はすべて自然淘汰されなければならないのです。】
それは野生動物として自然発生した場合に限られます
給餌 給水 医療にも関与し 繁殖で人為的に発生した動物が家畜となっていますから 飼育下動物は自然淘汰は正確な表現ではないと思います
強いて自然淘汰というなれば天寿を全うした場合かと思います

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またこの「自然淘汰」って私が地域猫活動をしてく上で出会う言葉です。増やした人、無知無関心の人は自己弁護のためにこの言葉を使います。
ですがし自然淘汰されている(はずの)猫は野良猫ではなく、西表ヤマネコなどの純粋な野生猫です。
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まつだ意見
私が「良」を入れていたことに気が付かないままにしていたからいけないのですが 正確には「野良猫」ではなく「野猫」ですね
「西表ヤマネコ」に限らず いわゆる日本猫も狩猟法では「の猫」と表されて 「西表ヤマネコ」とは別に扱い 「野猫」は狩猟対象動物とされています
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参考
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8C%AB

 

野猫(のねこ)とは、ネコ科家畜であるネコ(イエネコ)が野生化した個体群である。しばしば片仮名ノネコと書かれる。

 

野良猫と野猫は、通常は同じ意味だが[1][2][3]、狩猟鳥獣としてハンティングの対象として良しとするため、野猫と野良猫は違うものであるとされたこともある[4]。この場合の野猫の定義は、人間の生活圏への依存が全くみられない、野生動物であるとされる。野猫と野良猫に遺伝的な違いはないが、食生活によって区別するとされる(昭和三十八年の国会における林野庁指導部長による発言[4])。

 

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野良猫はもともと人に増やされ、人工発生し、(純粋に)自然淘汰されていない猫のことです。

>飼育されていた猫が遺棄されて浮浪することは もとは飼主がいたことであり 根本的に違います

ですからこれも、飼育という人工的な環境にいた猫ですから、そこから遺棄されたり逃げたりした場合、浮浪つまり野良猫となるわけです。

松田さんと私は野良猫に対する定義からして違いますね。
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まつだ意見
ここは 「の猫」としした方がわかりよかったかと思います
「の猫」「野良ねこ」はどちらも浮浪している猫 人が介入して生息していた飼い猫が逸走や遺棄で飼主をなくした状況の猫とされていますが 「の猫」は人里から離れて生息するとされ 論争はありますが 狩猟の対象とされています
市街地で遺棄された猫は間違いやすいので私は 「浮浪猫」と表現することが多いです

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A.H
>安易に飼い始めて 安易に捨てる
この悪循環を支えていると感じられることが「地域ねこ」の弊害だと思っています。

安易に飼うことが捨てることと直接的な理由になることはわかりますが、それが地域猫の弊害に関わるのでしょうか?
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まつだ意見
安易に飼う 買うということは 必要経費や時間的余裕 居住空間 心の余裕も含めて適切でなくても 「刹那的に衝動的に飼う 買う」 ことになる状況のことを言い表そうとしています
飼主としての責任が果たせなくなった場合に 譲渡も「安楽死処置」(安楽殺処置)も考慮できない人々がいますが 少しばかりの良心があれば 誰の目にも留まらない場に遺棄するよりも 比較的遺棄する人の良心の呵責が軽減される「餌付けがされている場」として「地域ねこ」の場が選択肢に上がるでしょう
現に「地域ねこ」の場には新しい猫の顔が増えることが嘆きの声として上がっています

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>【その猫を地域ぐるみで世話をするということが「目的」であり、当然のことながら「遺棄」するわけではありません。】
「「遺棄」するわけではありません。」意味が一貫していないと感じます

松田さんがおっしゃる野良猫=遺棄されたという不可解な考え方にに対して「地域猫活動は当然のことながらそんなことは目的ではない」という意味です。

>遺棄することに対しての飼主責任を問うのであって 飼主か救護活動で管理責任が生じた場合も含めて猫に関わった人間としての責任を放棄することで「遺棄」となります

責任を放棄することで「遺棄」にはなりますが、地域猫はその遺棄された猫を保護する場であり考え方です。すべての人に譲渡できるわけではありませんし、適切な飼い主にめぐりあうわけではなく、最悪の場合虐待者に譲渡される可能性があります。

ですから私は譲渡されるよりも、限りなく自由に行き来できる環境や可能性を作られる状態で世話をし、地域で見守り、寿命をまっとうする(野良猫ではなく地域猫)猫の方が幸福なのではないか?とも思います。もちろん共存以上に、猫のほうも人を愛し、人の家族になればそれはそれで最高です。
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まつだ意見
【責任を放棄することで「遺棄」にはなりますが、地域猫はその遺棄された猫を保護する場であり考え方です。すべての人に譲渡できるわけではありませんし、適切な飼い主にめぐりあうわけではなく、最悪の場合虐待者に譲渡される可能性があります。】
【地域猫はその遺棄された猫を保護する場】
                        
ということは遺棄された猫の保護が目的としても 遺棄した人に安堵感を与えかねないことになることにおいて 捨てることで 殺さなくて済んだという贖罪感を与えるであろうことに「地域ねこ」活動に疑問がわきます

当に【責任を放棄することで「遺棄」】
となるという解釈はあなたと同じです

【限りなく自由に行き来できる環境や可能性を作られる状態で世話をし、地域で見守り、寿命をまっとうする(野良猫ではなく地域猫)猫の方が幸福なのではないか?】

 


私が現役時代を含めて 40年間以上見てきた浮浪猫で幸せだと感じたことは一度もありませんでした
先にも何度も触れていますが 不良飼主に囚われるよりは 浮浪の方がまだ救いがありますが 自由が良いとされるなら 家屋内飼育の意義が問われます
束縛(管理下)=安全
自由(放任)=危険 は並行していると思います
                        
餌付けや触れ合うとき 人の目に触れているところでは「幸」そうに見えるでしょうが 
【限りなく自由に行き来できる】
ということは 人の監視下を離れて目視できないところへ行く可能性が多く そのような 監視できない時間 場所での虐待や傷病は防ぎきれません
                         
それらの虐待や傷病被害にあった動物たちを見つけられた場合には 携わる人にもよりますが 医療を受けさせることもあるでしょうが知らなければ「いなくなった」で終わるでしょう
                 
虐待や傷病で苦しむ動物たちは自らは自己申告できません
                     
人目に触れないところで苦しみながら死までの時を耐えなければならないのです 
                      
それは長い日数のこともあり 知りつつも「かわいそうだけれど捕まらない」とよく聞かされました
決して自由が「幸」にはつながってはいません

【限りなく自由に行き来できる】
は 「地域ねこ」に携わる人々の気休めだと感じています
                      
不自由(管理下)は安全につながりますが 自由は管理がない即ち無防備 自己責任ということも言えます
「地域ねこ」が 管理された「保護下」という感覚でなければ 【、寿命をまっとうする】ということは言えないと感じますが 私が知る限り10年以上という天寿を全うしたという猫はわずかしか知りません
たぶんよほど幸運であったのであり 人々に見守られた結果ではないと感じることが多いです
現実には 「地域ねこ」が 一般的な飼い猫(適切な家庭飼育猫)と比較して短命であることは指摘されていますね
平均的には 2-5年と言われているようです
飼主自身に虐待されることもありますが 適切な飼主に恵まれて 譲渡(購入)で飼育された猫たちは20年の長命も珍しいことではなくなりましたね
ゆえに 浮浪動物が「幸」と感じたことはありません
「地域ねこ」に頼っているのは 猫よりも「ノーキル」を提唱される人々の心の安らぎのよりどころとされているとみているのが私の見方です
凄惨な死に方をしたり 死に直面しながらも逃げ惑う猫たちに出会うが何もしてやれないという 無力感に苛まれる つらい場面に遭遇されたご経験はおありでしょうか?
私はそのたびに遺棄した人間の無責任な行為を詫びたものです
                     
猫の感染症が 市街地に出てくる野生動物 タヌキや 狐に広まっていることも珍しくはないですね
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
A.H

 

>【松田さんが、遺棄に対して寛容しなければならないと思われているのでしたら、【遺棄の防止】ということと矛盾しています。】
驚きますね
全く反対の解釈をされています

について、その個所のコメントを見返しましたら

>遺棄されることに対する寛容さが遺棄の防止につながらず バイパスを作っていると感じます

と書かれていました。これは私の読み違いです。失礼しました。
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まつだ意見
お分かりいただければよろしいかと存じます

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しかし「遺棄されることに対する寛容さ」というが、反地域猫となることがまったくわかりません。

>遺棄に対して「寛容」であるのは「殺処分ゼロ」思考の方々の多くに見られると感じています

「殺処分ゼロ」思考はその「寛容」があるせいというわけですね。ですが殺処分ゼロにしたい人が遺棄はその原因となるわけですから、遺棄に対して寛容しているとは思えませんが。
寛容とはどういうことなのか、もう少し説明していただけませんか?
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まつだ意見
殺処分回避のための対応としては まずは「譲渡」ですね
しかし 「余剰動物」と表現されますように 譲渡受け入れと 譲渡待機の動物の頭数は 圧倒的に 「譲渡待機の動物」が多数であり 譲渡待機の動物のいくらかは新たな飼主に恵まれますがその多くは「余剰動物」とみなされることになります
遺棄されることに対して 殺処分しなかったからという「寛容」な解釈で「地域ねこ」として「見守る」ことにされているのではありませんか?
ある 法律家と論争した際に「なぜ捨てたらいけないの 殺すより 生かせてやれていいでしょう」と言われて唖然としたことがありました
この言葉に遺棄に「寛容」というよりも ご自身が救われていることが表されていると感じています

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A.H

 

>【登録制度にすることについての利点は何になるとお考えでしょうか?】
飼主としての責任感をより意識させることになるでしょう
逸走した場合や災害時の所有権保護にも役立ちます

逸走した場合についての利点にはなりますね。ただ、現実問題としては無理でしょう。
飼主としての責任感をより意識させることには疑問です。
であれば、登録制度のある犬の遺棄は少ないということになります。狂犬病予防の注射、鑑札の義務ですら一体何人の飼い主がそれを実行しているでしょうか。迷子犬に鑑札がないことでどれだけの犬が殺処分されていることか。猫も同じことです。登録制度にしたからといって人間側の意識や法律が変わらないかぎり遺棄は減りません。

>【もし把握できたとしても次には飼い主が誰になるかという問題があります。】

については、あふれんばかりの猫の譲渡先がそうそう見つかるわけがないという意味です。(ご自身も「譲渡先の確保は「余剰動物」という言葉が表しているように非常に困難です」と書かれています)仮にマイクロチップなどで管理体制ができても、蛇口をしめないかぎり無駄になります。そのために手術の必要性があるわけです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
まつだ意見
>【もし把握できたとしても次には飼い主が誰になるかという問題があります。】

については、
【あふれんばかりの猫の譲渡先がそうそう見つかるわけがないという意味です。】

 

間が飛んでいますね
【もし把握できたとしても次には飼い主が誰になるかという問題があります。】
については 登録の書き換えをすると書いています

「譲渡先の確保は「余剰動物」という言葉が表しているように非常に困難です」と書かれています)仮にマイクロチップなどで管理体制ができても、蛇口をしめないかぎり無駄になります。そのために手術の必要性があるわけです。

文章として直には移行していません

現状は マイクロチップの挿入は任意であり 未だ少数であることも効果が表れない一因となっているでしょう
義務とされて飼主責任の表し方の一つとされたなら 今よりも効果は上がると予測できると思います
犬の遺棄頭数に比較して 猫は圧倒的に多数です
登録制度の有無とともに 飼育管理の在り方について リードの義務等の制限がより多い犬に比べて 猫の飼育管理について規制が少ないのは事実です

狂犬病予防法は守られない法律の代名詞のような状況で放置されていることが問題です
国民の義務違反とともに 行政機関とともに立法府の責任も大いにあるでしょう

なぜ守られないのかの一因に 獣医師ご自身が否定されていることも少なくないと感じています
であれば「狂犬病予防法」改正等の行動をおとりになられることが筋だと思いますが 法律第105号にもご関心が低いお方が多いと書きましたが 「法律をまもる」という国民としての義務のあり方にも関わることだと思います
いらないのであれば 変更されるように働きかけられることが大切でしょうし 存続させるなら 守ることに力を注がれることが国民として 社会人としての良識だと思うのです
 
獣医師とは 獣医療のみならず あらゆる面で動物との共生にかかわる専門家であっていただきたいし 適切な指導がお出来になれますようにと願っています
                     
「命を助ける学問はしたが 命を奪う=殺す学問はしなかった」と よく聞かされますが 医療とは苦痛の軽減が基本だと思うのです
苦しむ飼主と動物を救うことの一助としての「安楽死処置」(安楽殺処置)は 立派に人と動物と社会を救うことになる とはお考えにならないのでしょうかね??

昔 ジステンパーの症状が顕著に出ている浮浪犬を保護したものの 開業動物病院では診察もしていただけず ましてや「安楽死処置」(安楽殺処置)のために診察台にあげることも 他の来院動物に感染させる危険性があるからと言われて断られて途方に暮れたことがありました
そのようなときに 初代の神戸市獣医師会長は「どうしても 誰かがしなければならないことで 死によってしか救えないのであれば私の技術を提供しましょう」と仰られて 犬とともに人間(まつだ)と社会を救ってくださいました
今も忘れられない御恩であり 感謝の気持ちで一杯でした
当時は 隔離設備もなく それだけ動物病院の設備が整っていなかったということもありますが その気があれば 屋外でケージの中で 「安楽死処置」(安楽殺処置)のための注射をすることはできるのです
心が狭いと感じたものでした

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>私は自分の飼育していた動物たちを二次的に譲渡するつもりは全くありませんでした
>わたしと同等か以上であれば

これについてはまったく私と同じ考えです。
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まつだ意見
私の場合は 「安楽死処置」(安楽殺処置)を致し方のないこと 「ベストではなくてもベター」として受け入れていましたが どうしても「安楽死処置」(安楽殺処置)さえも殺処分として受け入れられないお方が多く それらの方に新たな譲渡先「良い椅子」をお譲りするということも考慮しての決意でもありました

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>余剰動物対策の一策としての殺処分は非難されても責務としてできる機関が行政機関です

うーん、これは難しいですね。

「殺処分ゼロ」とうたう人たちはたくさんいますし、理想通りになってほしいですが、現実的にはそうはいきません。
「蛇口は開きっぱなし」という表現通りだと思います。
ですが法35条では「引き取りを断ることもできる」という解釈もできますし、今の時代、行政が自ら断っていますし、愛護家ではない(むしろ処分したい方の)民間人もその事実は知っています。古いセンターの取り壊しの際に殺処分機を最初から作らないというところもあります。

行政が殺処分ゼロとうたっているところも実はボランティアに丸投げした結果の数字だとある保健所の職員さんが言ってました。
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まつだ意見
【「蛇口は開きっぱなし」という表現通りだと思います。】
繁殖や販売業者を制限できない現状では「蛇口は開きっぱなし」
にならざるを得ないですね
現状は調べていませんが 過去にはJKC顧問に故.・宮澤喜一氏等の高位の5-6人の政治家が名を連ねておいでのことがありました
業者の規制には立法というところで関門があるのかもしれません

【行政が殺処分ゼロとうたっているところも実はボランティアに丸投げした結果の数字】
その典型が 広島市 でしょう
民間団体の窓口的存在のようにお見受けしてしまいますが 間違いであればご指摘ください

熊本市も 不適正多頭数飼育で褒められていたのですが この度の大震災でご苦労の最中ではあり 時期的には言いにくいのですが 日常の多頭数飼育管理のために 被災動物を受け入れる場がなく 他府県に保管動物を引き受けてもらわれたと聞いています
                           
以前から私は 「数字的」に行政機関が「殺処分ゼロ」を達成することはいと優しいことだと公言してまいりました
不適正多頭数飼育保管をして 不適正譲渡をして 受け入れ拒否をして 民間丸投げをすれば明日からでも数字は「殺処分ゼロ」にできます
                           
何をもって「殺処分ゼロ」を証明できるのか?
虐待やネグレクトで死に至った動物たちはカウントしないのか?
「安楽死処置」(安楽殺処置)も含めて 行政機関だけが殺処分さえしなけければ「殺処分ゼロ」なのか?
これほどあいまいで 国民をごまかす言葉の使い方になぜ多くの人々が酔いしれるのか?
「殺処分ゼロ」の言葉を利用する側の意図的な 「優しそうな感じ」が前面に出されるからであろうと感じます
支持者に人気稼業の人々が多いこともうなずけます

【古いセンターの取り壊しの際に殺処分機を最初から作らないというところもあります。】

これについては「殺処分機」は不要であり 携わられる方々の心的ご負担はおありでしょうが 義務と動物に対する思い遣りがおありであれば 「安楽死処置」(安楽殺処置)に努めてくださることが 獣医師としてのやさしさだと思います
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それにしても「余剰動物」を殺すための業者に頼むのなら自分の手で殺すべきです。家畜と同様、自分が殺せないから他人に殺させたものが食べれるわけです。

先にも述べたように、私は限りない苦痛を与えられている動物たち苦痛を考えると、最終的、つまりその地獄から救われないのならば死こそが唯一の救いだという考えですので、安楽死についてはケースバイケースで仕方ないと思ってます。実際、飼っていた猫が瀕死の状態のときに獣医師に頼んだこともあります。
言葉が話せない動物ですから、そういう判断も飼い主がしなくてはなりませんので辛いですが、人間に対してもそうですよね。
北欧のある国では人間の安楽死も合法化されていますし、日本ではなぜか死がタブー視されてますがこれはおかしいです。皆誰もが死ぬために生きているのですから、死を考えずによりよく生きることもできません。

つまり死ぬ方が楽になるのなら、安楽死させてあげるべきだということでしょうか?それならば松田さんとの考えは私と同じです。
しかしそれがどうも地域猫の方法論に反対されているのと結びつかないんですよ。

>「終生飼育義務」の終局責任の果たし方うちに「安楽死処置」(安楽殺処置)があると考えています
共生動物の死を見届けることが本来の飼主としての「終生飼育義務」でしょう

つまり、飼い主のいない猫はすべて安楽死させ、飼い主として全うさせる(安楽死)ということでしょうか?
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まつだ意見
【つまり、飼い主のいない猫はすべて安楽死させ、飼い主として全うさせる(安楽死)ということでしょうか?】

誤解を恐れずに答えるなら 「はい」です

もっと丁寧に言えば
【飼い主のいない猫】
となる前に飼主が決意されることです
そこで
「飼主は死を見届けることが飼主責任の果たし方」と思っています
無論「譲渡」で解決できればそれでよいのですが 譲渡先から死亡の報告を受け取れることが責任のうちに入れられていなければならないと思います
私が携わった譲渡動物のすべてではありませんが その多くは死亡のご報告をいただいています
公的な譲渡であった『CCクロ』活動の動物たちもマツダにご報告をいただいていることはたくさんあり 飼主様に心から感謝しております
                     
例え病気や飼育困難な動物たちであっても 「安楽死処置」(安楽殺処置)を断ることが 獣医師としての「やさしさ」であるとは 認めたくありません
ご自分の心を優先された【自己愛型動物愛護-S,Ma】故であると言いたいのです

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今回このようにご丁寧にご意見をいただきましたこと それに対して返信の機会をいただきましたに感謝いたします
                   

 

先にも述べましたように 家族の事情でPCに向かうのは深夜になることが多く 誤変換や誤字脱字もあり 冷や汗ものではありますが ご覧くださる皆様のご寛容さに支えられて維持しております
                                
時には 2ch的な嫌がらせコメントもきますが それもその方の感性ですから このように自分の意見を公開することに対しては容認しなければならないのでしょう
                                
今までにも数人の方が理論的に攻防できなければ 古い貶めることを意図された週刊誌を持ち出されて 殺処分礼賛をしていたかのように曲解して蔑むことで優越感に浸られているご様子ですが それも社会の中の一コマですから致し方なしです
論争に勝てそうにないとされた段階で この週刊誌が持ち出されるのもよく似た行動パターンです
自らは 普段は週刊誌に批判的だと言いつつも 週刊誌の記事を丸々信用されるあたりは批判の対象にもしたくない ご都合主義の典型かなと感じますが どうでもいいことです
活字は消すことはできないし 編集側に修正に応えてくださるほどの善意はないでしょうからあきらめることになります
週刊誌の中でマツダに「安楽死処置」(安楽殺処置)の洗脳をされたということが書かれていましたが この方とは施設ですれ違った程度の出会いしかありませんでした
故に マツダは相当な超能力者であるとなってしまいそうです
気に入らない他者を誹謗するためには手段を択ばない 低俗な輩には対抗する気持ちもないですが この方はなかなか 現在も動物あいごでご活躍です
社会は正義よりも金と力がものをいうのでしょう
                               
時代背景をご存じない若い方々には 想像もつかないことなのでしょうが ほんの30~50年ほど前の日本の動物の扱われ方は「ひどい」ものでした
たかが動物 されど動物
生きていてほしいのか 生かしてやっているのか 

人間の食事の残り物 残飯を与えて 屋外につながれていることが飼い犬の多くの処遇でした
時には犬舎もなく農機具や柵につながれていたり 放されていたりして 田んぼの農薬の水を飲み中毒死する犬も珍しくはなかったのです
農家も牛蒡のてんぷらの牛蒡を抜き取り 農薬を詰めて田畑に置いていることもありました
フィラリア やテンバー等の感染症が多くて 犬の平均寿命は6~7年とされていたものです
                        
動物に対して不妊手術をすることが物珍しいこととされていた時代です

当時は 子猫よりも子犬の引き取りや遺棄の収容頭数が多く 万の単位でした

兵庫県の場合は昭和59年子犬の収容頭数が12.262匹 成犬が12.254匹と記録されています
昭和53年から昭和65年までは子犬と成犬を合わせて2万頭を超えていました
平成15年頃から犬の収容頭数が減少に転じてきています 

猫は平成4年が子猫9085匹  成猫1775匹が最多収容頭数となっています
犬と比較して 猫は平成25年も子猫の収容頭数は1500を超える頭数であり 犬とは格段の差があります

熊本市では市民が持ち込まれた遺棄の救護子猫を「もとの場所へ返しなさい」という 信じられない「指導?????」が映像にありました

行政機関の責務として引き取りをされる行政機関には厳しい批判がありますが このように行政機関としての責任回避とみなされる行為が「優しい」と評価される社会現象がありました
                       
あるお方が 今の若い方々は最近の愛護団体の先鋭的な行動に感激していて 昔に「動物福祉の向上」を目指して活動した者たちがいたことなど知らずで そのことを古い資料で初めて知ったと言われていましたが 昔からの地道な 困難を耐えての活動が今日の動物福祉の礎になったと 自画自賛とでも言われそうですが その時代にできる精一杯の努力は惜しまなかったと自負しています
                  
新たな時代を築かれる若い皆様が 感情優先ではなく 知識と理性に基づくご活動をしていただけますようにと祈ります
長い 長い コメント返信となりました
ごめんください
ご自愛の上ご活躍くださいますようお祈りいたします
ありがとうございました  松田早苗
 

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いいね! · 返信 · 昨日 13:53

 

A.H
>動物観による不妊手術回避もあります 

その動物観は哲学的なことですし、そもそも、どうぶつを本当に愛するのなら、皆、そのような動物観をもっています。
しかしそれは問題がなければの話です。様々な精神的肉体的労力や苦痛、費用、時間もかけてTNRをすることはありません。
これはまた

>理由は問わないで殺処分はしてはならないとなれば遺棄に逃げることになるでしょう

と同じ考えだと思います。
手術をしなければ増える一方の猫であれば、動物を思うという気持ちとの自己矛盾に必ず出会うということです。

>二次的に不幸が連鎖していくことの防止策としてやむを得ず不妊手術 繁殖制限を「させていただいている」のです

全く同感です。

>「不妊手術してやったよ勝手に生きてゆきなさい」「病気もケガも虐待被害も不運なだけですよ」

これは過剰な考え方ではないでしょうか。またそれがTNRの基本とはとうてい思えず、というよりもあなたもおっしゃる「二次的に不幸が連鎖していくことの防止策」ということが根底にあります。

 

いいね! · 返信 · 昨日 14:11 · 編集済み
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まつだ意見
これは過剰な考え方ではないでしょうか。またそれがTNRの基本とはとうてい思えず、というよりもあなたもおっしゃる「二次的に不幸が連鎖していくことの防止策」ということが根底にあります。

そう考えなければ到底{TNR} の「R」 放すことはできないでしょうね

 

現役当時に遭遇した数々の苦しみにあえぐ猫たちを見てきた記憶は忘れられません
放した後の苦難を想像すれば私には不妊手術後に放すことはできないことですが 関わられる人の心を尊重すればそれはやむを得ないと思うしか致し方がないというところです

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A.H

 

>獣医師の金儲け】となったとしても 社会的に利益がより大きくなることを選択するのは社会の仕組みでは当然ではないですか?

ただしそれが純粋な動機と実践であれば公益となるでしょうし、そうなればマイクロチップもわざわざ否定しません。
実際には助成金に関わっている獣医師は、申請者にわざと耳カットをしない、手術のために病院に一度連れ去ったら最後、野良猫は元のところに戻らないという脅しをしている輩もいるようです。
私たちボランティアにあおりがくるというわけです。

耳カットしなければ目印がなくなり、捕獲した猫を二重に手術しなければならない。連れ去ったら戻らないと言われて手術をしなければまた猫も人間間の問題も増える。

>遺棄の防止に何がより有効であるのかは 「安楽死処置」(安楽殺処置)が否定されているので 現在決め手が確立していないと思います

逆に安楽死処置が肯定されれば遺棄の防止の有効的な方法がみつかるんでしょうか?安楽死が認められれば遺棄が減るのでしょうか?疑問です。
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まつだ意見
【逆に安楽死処置が肯定されれば遺棄の防止の有効的な方法がみつかるんでしょうか?安楽死が認められれば遺棄が減るのでしょうか?疑問です。】

 
飼主責任の表し方に「安楽死処置」(安楽殺処置)が認められるなら 飼主として理解はできるが自らはできないというお方のためには 過去の私のような役割を引き受けてくださる方も現れることで 遺棄の頭数が減ることは期待できるでしょうが 「殺処分ゼロ」の考えを変えることには時間がかかるでしょう
現状では「安楽死処置」(安楽殺処置)そのものが悪いこととして あいご家にも獣医師に反感を持たれていますから「安楽死処置」(安楽殺処置)が 飼主の終生飼養義務の一手とされることとなるには「殺処分ゼロ」「ノーキル」の再検討がされなければならないでしょう

【手の届く最高峰が理想 それを超えるものは空想-S,Ma
【理想の実現には 知識と力と忍耐と理性と幸運が必要であります-S,Ma
幸運に恵まれることとは開拓することも大切ですから 嫌われつつもこうして訴え続けています

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A.H
 
こちらこそ長文になりまして、すみません。

松田さんの安楽死のお考えが動物のためであることは、よくわかりました。
しかしそれでもなぜ地域猫の考え方が遺棄への寛容となるのかわかりません。
所詮完璧なバランスがとれている自然に対し、人間が少しでも関与や干渉をする限り、繊細な均衡で保っていたバランスは崩れ、人間も自己矛盾につきあたる以上、手を出さないということしかありません。
その最小限のなかでの最大の抑止力はTNRであり、地域、行政に理解と協力を求めるのが地域猫の考え方です。

放たれた猫の責任を最後まで負うことも責任のひとつだとは思いますが、活動において、個人の資源や資力には限度というものがあります。
安楽死させない限り幸福な動物でないというお考えも、過剰な一般化ではないでしょうか。
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まつだ意見
【その最小限のなかでの最大の抑止力はTNRであり、地域、行政に理解と協力を求めるのが地域猫の考え方です。】

その中に動物による迷惑を感じておられる方々や 猫自身のQOLはほとんど保障されていないということには 「我慢してね」で済まされているように感じます
我慢の限度がいかほどなのか?
虐待被害が頻発することの原因は何か?
怖い猫は虐待加害者もほとんど相手にはしないでしょう
人に慣らされた「やさしい」「かわいい」「警戒感が少ない」ねこが犠牲になる確率が高いことは否めませんね

【安楽死させない限り幸福な動物でないというお考えも、過剰な一般化ではないでしょうか。】

「安楽死させない限り幸福な動物でないというお考え」
表現に 反対へ誘導しようとされる意図されたものを感じ 抵抗がありますが 現実的に考えると私は 経験的に遺棄するよりは「安楽死処置」(安楽殺処置)が救いてあると感じています 
ベストではないがベターであると思います
飼育動物の死を見届けることが飼主責任であるという価値観が定着されるなら 現状の民間シェルターの在り方も変わると推測します

それでも人が動物との共生をする限り 虐待もネグレクトも遺棄もなくならないと断言できます
それは 膨大な組織力をもって活動されている諸外国の動物福祉の団体が証明されています

時代で価値観も変わりますから 自分の信念に基づいて より多くの方々に考え方を知っていただく努力をすることしかないと思います
あなたはあなたの正しい?と思われることを 私は私の正しい?と思うことを軸として より多くの人々に知っていただく努力をすることだと思います
意見の違いを誹謗中傷で貶めてやろうとする人がいれば それは自らが社会人として成長したくないとの意思表示であろうと感じます

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長くなってしまいましたことと 注意深くご覧いただきたいと思いますので よりわかりよい表示ができます ブログで意見表明をさせていただきます
ご参考までにご高覧下さいますようよろしくお願いいたします
返信が遅れましたこと ごめんください
当方の事情にご寛容にご理解いただいたことに感謝いたします
ありがとうございました  2016-6-3 文責 松田早苗 

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