2010-8-13編 動物慰霊祭に思うこと
拝啓 へそ先生さま
日頃獣医師広報板 先生のこのページに関心を持たせていただいています
動物愛護週間が間近ですので 時期的に各地で動物慰霊祭が予定されていると存じます
少し意見を述べさせていただこうと思います
勝手ながら先生の文書の一部抜粋ですので 皆様は詳しくは下記hpでご覧下さい
(S,Ma注- 黒文字へそ先生 緑文字S,Ma)
http://www.vets.ne.jp/seminar/pc/6000.html
http://www4.ocn.ne.jp/~animals/
しかし、本当に神の姿、形を見た人がいるのでしょうか。私は神とは真理のことだと思っています。とくに信仰はありませんが、真理の存在は信じています。真理には姿、形はないはずです。
ところで、動物慰霊祭というのは仏式ですよね。戦没者慰霊祭はキリスト教や神道にもありますが、動物慰霊祭は、どこでも、かならず仏教です。これ、信教の自由をうたっている憲法違反じゃないでしょうか。私企業の研究機関はともかくとして国立大学でも動物慰霊祭をやっています。もちろん無宗教でやりますからといって、お坊さんを呼ばずに献花だけというところもあります。なんといおうと動物慰霊祭というのは仏教の発想であって、キリスト教にも神道にもないものです。憲法違反だと反対した話もなく、たいがい神妙に参加しています。
輪廻の思想があるからこそ動物慰霊祭の意義があるのです。
私はこの御説に全面的には賛同できません
ただし 悪徳飼主を説得できなかった最後のせりふとして 動物に向かって
「お前さん(飼育されている動物)が今度生まれ変わってこの人(飼主)となり この人(飼主)はお前さんのその苦しみを体験してもらう立場となるだろうね でも気がついたときに改めることができると思うが その時には前生でのこの人(飼主)の罪を許してやって(同じく虐待をしないで)次の世に同じ輪廻をしないように祈ろうね」と飼主の顔は見ないで動物に話します
どのような話も通じないこのような人(飼主)には少し効き目があることもあります
輪廻については私の中では全く不明ですが 慰霊は動物の死に関わった者としての自分の心を慰めている一面があると感じています
どのような死であっても 動物の力が尽きたか 生存できる能力があるのに人為的に殺処分したのか 経済的に生を中断させることになったのか さまざまな例があるでしょうが
「安楽死処置」(安楽殺処置)も含めて「人為的に殺処分」を詫びる気持ちの表し方でもあり
人の側からはある種の救いであろうと感じています
近年は先生も御承知とは存じますが 無宗教での慰霊祭が多くなっているように思います
献花と黙とうで終わる それでよいと思います
動物に魂があるのか 人だけが死して天国 浄土に行くのか解りませんし 宗教を信じるか否かのように自由に発想してよいと思うのです
このところ怖さを感じることの一つに宗教が政治に介入されるのではないかと言う(控えめに表現せざるを得ないので)不気味さを感じています
洗脳に弱い動物である人間は偉いのか 強いのか 全く正反対に偉くないか 弱いか 教えを受けると真面目一途に信じます
私は信じないと言う自己暗示がかかっているのでしょうか?
宗教の多派閥分岐にも 蓄財にも大いなる疑問を持ち 後世のお偉い人が新興宗教の教祖様になられるならば 一人信者の教祖であって佳いと思っています
一人信者では蓄財はできませんが 悩み多きお方の心を救うにはある程度の経済力も必要だとは思いますが 既存の団体には時には必要以上の蓄財と感じることがあります
宗教は自己の信じる教えが最高でなければ意義がなく 他を認めては成り立たないでしよう
宗教は人を救う半面 最大の争いの因となっています
古今東西 あらゆる宗教が正義と称して 聖戦を凄惨に置き換えられても貫かれるところに恐怖を感じます
布教もまたしかり 他宗教の拡大を制御すべき小さな「聖戦」のように見えます
[しかし、本当に神の姿、形を見た人がいるのでしょうか。私は神とは真理のことだと思っています。とくに信仰はありませんが、真理の存在は信じています。真理には姿、形はないはずです。]
このお考えに賛同いたします
人間の脳はイメージを作る天才だそうでね
信心深い方なら寛大でしょうが 浅い信心のお方には叱られそうですが 神の姿も人の脳の中で形として認めることが信心となるのではないかと感じています
[真実は唯一ですが正義は人の数だけあります-S,Ma]
余談ですが 真実と真理は別でしょうが 真理も解釈により変わるように思います
「真実」とされるものの中には 意識的に利害を計算して「らしく」見せる 勝者の「こうあるべき」が「真実」とされて後世に伝えることはあっても 本来「真実」は唯一無二 であると思います
「真理」は信じることが異なれば変化もあると感じます
宗派毎に真理は異なるのではないでしょうか?
私は 人知を超える理解不能な現象 現実に直面するとき 説明がこみ入るので総称的に「神」と表現しています
動物の死に関わるときには「神様(命が発生した元 自然)のもとへお帰り 人間の罪を許してください」と申します
宗教としての対象ではなく 私の能力では理解ができないことは「神業」として通過します
納骨のない 象徴としての慰霊碑に心を込めて黙とうできるのは 私の中では慰霊碑にと言うよりも自分の心にある畏敬の念を表す場として慰霊祭に臨みます
名もなく愛されることも乏しかったであろう動物たちと 愛されて飼主を「ペットロス」に悩ます動物たち いずれも私は「動物」として自然に帰してやりたいと思うのです
歴代の身近にいた動物たちの抜け落ちた犬歯や土に返した彼らの骨の一部が思い出を語ってくれることもありますが 火葬をしたお骨を引取ったことはありません
私の死後は誰も気に留めずゴミとされるかもしれませんし 私だけの価値あるものだと思うので敢えて引取らないのです
自分自身の死後も葬儀も墓碑も不要 散骨を希望しています
かつて「ヒトと動物の関係学会」でご高名な先生お二人が「動物は哲学を持っている」と言われたと記憶しています
とても同意できないことでしたが 私には確かめようもないことです
[意見は違って当たり前 他人の意見の尊重も忘れずに-S,Ma]
と言うところでしょうか
へそ先生はどのようにお感じになられますか?
S,Ma blog: http: http://s-ma.cocolog-nifty.com/
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