「アウシュビッツ」と表現することへの私見
「アウシュビッツ」と表現することへの私見 2010/02/23 S,Ma
2010年2月20日http://www.asahi.com/national/update/0219/OSK201002190222.html
朝日新聞記事から一部抜粋
捨て犬猫、走る処分場 徳島県・奈良市、迷惑施設代わり(1/2ページ)
徳島県と奈良市が、飼い主に捨てられた犬や猫を、火葬施設まで運ぶトラック内で殺処分している。犬や猫を集める施設での殺処分が住民に受け入れてもらえないために考えついた苦肉の策だという。
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ナチスの虐殺アクションが今日本で! 対象はあわれならびに動物たち「捨て犬猫、走る処分場 徳島県・奈良市、迷…」
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この移動処理場の行為は、ドイツのナチスがユダヤ人虐殺に用いた方法のひとつです。走り回っている間に荷台のボックスには排気ガスが送られて、30分もすると「全員が処理されています」。真似で発展してきた日本が……
ネットに現れる行政機関保管状況の攻撃的文言の代表的な表現にしばしば「アウシュビッツ」が使用される
この表現を見るとき 書き手の動物福祉に対する基本的な知識 経験ともに十分といった思い込みで悦に入った感が窺えてある種のさみしさを感じる
「アウシュビッツ」の文言で括ろうとするそこには行政機関現場職員へのさげすみ以外には理性的な論理が感じられず 感情に訴えようとされることが空しく感じる
国家の動物行政基本方針の低劣さと法律の不備と国民の無関心から放置されている現状に対する認識に欠けている多くの人々の思いの表し方であるともと感じるからである
改革すべき事柄(基本法律関連)と攻めるべき相手(立法府=国会議員 自治体幹部と議員)と国民各自の問題点(無関心 現実的ではない夢想=「ノーキル」)に対する認識と関心が乏しいことに起因しているように感じる
他力本願で変わることを期待している多くの国民の無関心と 「アウシュビッツ」と表現することがあたかもやさしさの表し方であるかのような自分のおごりに気が付いていない
殺処分には手を染めていないから「動物福祉」に もう一段落としても「動物あいご」に貢献しているかのような錯覚をもたれることは初心者にはよくあることだが 為すべきこと 見るべきことから目を背けているか未経験分野が多すぎるに過ぎないと言いたい
人の福祉を考慮したとき悲惨な状況から目を背ける人を責めることはしたくないが やむを得ず社会が見捨てたことに現状で出来うることを現実的に携わる人への思いやりは持っていただきたい
年数を経た活動家であれば「アウシュビッツ」と表現することは現状認識の不足か 自己愛に没する故に現実逃避をしていることと言い切れる
奈良市については市長様宛に改善要望書を提出(団体名で)したこともあるが 現状維持は変えられなかった
このことについては現場職員の方々は言うまでもなく苦慮しておられたことはよく存じ上げている
「迷惑施設」に対する地元住民の排除が常に働くことはどこでも同じであり 時には理不尽に感じることがある
「死」に関すること あらゆる意味での「処分」に関することを避けたいのは誰の気持ちも同様ではあろう
しかし 人が生きて生活をする限り結果としての必要欠くべからざる施設であり なくては健全な生活が維持できなくなる
にもかかわらず 自分の周辺で設置されることは拒絶するのが当然とされている
各地方自治体毎に都市計画として壮大な土地に迷惑とされている施設の全てを集めることも必要ではないだろうか
各施設を樹林を境界として配置できれば 緑の確保にもつながる
浅はかな素人考えと一笑に付されるであろうが 迷惑とされる施設が「必要」であることは全ての人が認めている
しかしながら現実では動物愛護センター等の建設条件に「殺処分」はさせないと約束をさせられることはあるようだ
その結果は殺処分のために改めて遠距離の生態移送が必要となり 余分な経費も生じさせることになる
現地での殺処分を拒否されることにより その結果に生じる動物が受ける心身の負担は大きなものである
心理的に不快であるのは分からなくもないが 殺処分の現場を見せられるわけでもなく 動物に対する憐れみの心を持って考慮をしていただければ それを回避することのリスクの大きさに気付いていただけるのではないだろうか
むろん殺処分しないで済むことは理想(空想的域の)ではあるが 現実は繁殖が自由であり
動物との共生にも一部に制限を試みられている程度であり ほとんど個人の意思に委ねられているので 理想ではなく空想に止まっている
需要と供給のバランスは常に供給過多に偏り 余剰動物は「譲渡」「不妊手術」では解決されることは 少なくとも現状ではない
「自己愛型動物あいご家」の主張される「ノーキル」「殺処分ゼロ」の妄想は結果として社会的な意識のあり方に負の作用を働きかけているとS,Maは思っている
「殺処分」が「安楽死処置」(安楽殺処置)であっても 方法論にも及ぶことなく「殺処分ゼロ」以外には思考が及ばない様子であり 「ノーキル」はもっとも崇高な思想と思われているのであろうが その考え方が動物に苦痛を強いることになっていることは否めない
「動物愛護」をもじって「愛誤」「哀誤」と当て字を使っているがそれこそが大きな誤解であろうと感じる
彼らの主張される「動物をモノとして扱う」ことの対極からの言い分となることには気がつかないであろう
彼らは 多頭数飼育や不適切飼育 不適切譲渡で動物の肉体は生かせても心を殺していることには妥協をしている
少なくともS,Maは幸せにはしてやれないが 苦痛からの解放はしてやれる現実的な方法としての「安楽死処置」(安楽殺処置)を認めざるを得ないという結論を得ている
「心」を思いやることを棚上げにして 生体の生存にのみ価値観を重んずることは すなわち「自己愛型動物あいご家」の言葉遊びと感じてしまう
殺処分頭数の減数に尽力することはだれしもが異論はないであろうが 法整備をして
国民の意識改革をして 「一匹でも多く適性譲渡で救いたい-S,Ma」「生かすことは幸せであること-S,Ma」が実践できるまでには「安楽死処置」(安楽殺処置)について正視する必要がある S,Ma
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